らくガキ日記

アモイ在住の兼業イラストレーターの日記

妄想中国論13 ”鎮魂歌(最終回)”

 テレビのチャンネルを回すと、だいたいどこかで第二次大戦中のドラマが流れています。そこで表現されているのは強者の立場から抑圧をおこなう日本人とそれに立ち向かう中国人民の姿です。私は立場上一瞬ドキッとしてしまうのですが、一緒にテレビを見ている甥っ子は何の感慨もなく画面を見つめ、興味ない内容であることを理解して次のチャンネルへと移っていきます。十年そこそこの彼の人生において、その光景は平凡な日常そのものなのでしょう。

 中国という国の永い物語、現代というページに書かれている悪役に日本は選ばれてしまいました。中国の近代史は不幸の連続でした。そこには現れるのは列強というさまざまな帝国主義の悪役たちです。日本以外にも選択肢はあったはずです。しかし、十三億人の人民をまとめなければならないリーダーたちは物語の要諦を決する役者にアジアの一国家の住民を選びました。もちろん、抗日戦線の勝利が現政府の正当性を証明する歴史的事実なのが主な理由だと思います。しかし、おかしな感覚かもしれませんが、私はそこに彼らの日本に対するある種の親和性を感じてしまうのです。これから自身の代表作を撮ろうとする映画監督は、憎たらしい悪役の親玉に一体どんな役者を抜擢するのでしょうか? おそらく、その役者は実力、経験が共に有り、監督が最も信頼を置ける人物である筈です。

 反日キャンペーンは副作用の強い薬物です。燃え上がったナショナリズムの炎は少しでも使い方を間違えると、自国に重大なダメージを与えてしまう危険性を孕んでいます。そのことを最も良く知っているのはリーダーである彼ら自身なのでしょう。この薬物を彼らが喜んで処方しているとは私には思えません。だんだんと薄くなっていく効用と、次第に増していく副作用に暗澹としながら、ただひたすら新薬の登場を待ちわびているのではなかと思うのです。

 大変皮肉なことを書きます。人間の行動には表と裏の意味があります。反日キャンペーンにも隠されたメッセージがある筈です。現政府を肯定するため、日本を否定すればするほど、中国政府のハードパワーが落ち、統治力が弱まった場合に対抗馬として日本の存在が強く立ち上がってくるのではないかと思うのです。皇帝が人民に供給する水を失ってしまったとき、歴史的には飢餓と内戦による煉獄の人口調整が開始されます。現在の中国の国家規模からみて荒ぶる大竜はその怒りを鎮めるために世界を飲み込んでしまうでしょう。21世紀の現在、中国人民はその呪縛から解き放たれなければなりません。そのときの良きパートナーとして日本人は皇帝御自らの名において指名されているのだと私には思えるのです。

 私は以前、日本人は中国の影響から逃げられないと書きましたが、それは中国の方々も同じです。近代史において日本の影響の方が中国の人々にとって、辛く、厳しいものだったのだと思います。歴史を整理するため多くの議論が必要でしょうが、先祖の死を現世の利潤に利用することは極力慎まねばなりません。それを怠ると結局はテロルの応酬に終わってしまいますし、何よりも死者を永遠の苦しみに落し込めることになります。両国の間には議論の勝ち負けで弔えない死者が存在します。それらの人々のため、私たちができることは結局、鎮魂歌を歌うことしかないのではないかと思います。今までもたくさんの日中の方たちがそれぞれの立場、それぞれの場所で歌ってきたのだと思います。その歌は大声で張り上げる性質のものではありません。拡声器やメディアを通して流すものでもないのかもしれません。その歌声たちは穏やかに共鳴し合い、ある敷居値を超えるのをゆっくり待っているのかもしれません • • • 。今回、私が書かせていただいた中国論も実は大分音程が外れておりますが、日中の人々に送った私なりの鎮魂歌だったのです。


 以上で妄想中国論は終了です。下手な絵と、読みにくい文章におつきあいいただきありがとうございました。内田樹先生の中国論には遠く及びませんがなんとか最後までたどり着けました。最後に,皆様と中国との関係が幸せなものであることを祈りながら本論を終わりたいと思います。(おわり 4/9)

参考文献
 『街場の中国論』内田樹著 ミシマ社
 『他者と死者』 内田樹海鳥社  


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本日もらくガキ日記にお出でいただきありがとうございました。

妄想中国論は終わりましたが、ブログはまだつづきます。
サニー号が届くまで、私の住んでいるアモイの様子を紹介しようかなと思っております。